こんばんわー天空 薙です
この前友人と話した哲学的な問い?に関して適当に書いてみようと思います
まず、そもそもTRPGってなんなんでしょうね?
一般的な定義とかについてはウィキペディア先生(リンク先:テーブルトークRPGの頁)にお願いするとして、
この記事を書くきっかけになったのはある考え方に触れたからです
同様の考え方がウィキペディアのロールプレインゲームの概要にあったので、そのまま引用します
かつて、この「ロールプレイ」の意味を狭義に解釈して、仮想の人格を演じることは抑制的であるべきで、キャラクタークラスなどの任務分担を果たすのみで足りるとする主張がネット上にあらわれて(つまりは、ウォーシミュレーションゲームなどへの先祖帰り的主張と言えよう)、日本のテーブルトークRPGプレイヤーの間で議論の元になったこともある。しかし、アマチュアファンの主張ということもあり、そうした理論を取り入れた市販ゲームは現れていない。むしろ、今日の市販のゲームシステムでは、ゲーム中やゲーム後に、ロールプレイに対する何らかの評価を行って特典を与えたりと、この定性的な要素をゲームに取り込む工夫をしていることが多い。ただし、その試みにも濃淡があり、ロールプレイを得意とするか苦手とするかというプレイヤーの嗜好によって、システムの好みが分かれることもある。
友人と話したときに論点になったのは
「ゲームとしての性質」と「どこまでを演じるべき役割なのか」ということでした
「ゲームとしての性質」というのは、
ゲームがゲームとして足らしめるのはなんたるかということで、
友人は「競技性」というところを重要視していました。
ゲームをするのだからどこかしらで順位づけやそれに類するものを求めているように感じました
自分としては、ロジェ・カイヨワの遊びの定義の中にある「虚構の活動」というのが一番しっくりきている気がします。
「どこまでを演じるべき役割なのか」というのは、
上の引用に関係のある話なのですが、友人の主張が引用のそれに似ている主張でした。
仮想の人格を演じることはTRPGというゲームにおいて、フレーバーでしかなく、
そのパーティーメンバーにおける役割(キャラクタークラスなどの任務分担)を効率よく全うすることがロールプレイングにおけるロールの本質だという事でした。
しかし、仮想の人格を演じることがTRPGにおけるフレーバー、おまけ要素だとしたら、TRPGがTRPGたるゆえんはどこにあるのでしょうか?
引用にある、ウォーゲームへの先祖がえりというところで、ウォーゲームとの境界線は?
ドイツ系のボードゲームの境界線は?ということの答えをその友人からもらえませんでした。
どこで出会った考え方か定かではないですが、
近い概念(今回でいうところのTROG、ボードゲーム、ウォーゲーム)を示す単語が複数共存しているということは、
意識、無意識関わらず、その概念に区別が存在しているということだと思います(最低限、作り手側は区別して、扱っているとかんがえられる)^
今回の主張の正しい、正しくない、多数派、少数派というところよりも、その概念の境界線というものがとても気になっています。
みなさんはTPRGはなにをもってTRPGだと思いますか?
そして、その境界線をまたぐようなゲームやその境界線から遠くへ遠くへと向かうゲームを創れたらまだ見ぬものになるのかなーと思っている天空 薙でしたー